史跡紹介
【石山寺】滋賀県が誇る日本最古の多宝塔を有する寺
探訪日:2016年1月3日
掲載日:2016年5月16日
宝篋印塔(重要文化財)
源頼朝と亀ケ谷禅尼の供養塔。
亀ケ谷禅尼の供養塔は重要文化財の宝篋印塔です。
制作年代は南北朝時代とされています。
宝篋印塔は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い。
中国の呉越王銭弘俶が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔(金塗塔)が原型だとされている。
月見亭
保元元年(1156年)に後白河天皇が行幸の際に建立したとされています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/行幸
崖から少しせり出ている舞台風の造りになっているのが特徴的です。
その後、幾度かの改修を加えられ現在にいたります。
明治や大正時代には天皇や皇太后など皇室関係者も訪れているので、瀬田川の方を眺望したり、夜には月を仰ぎ見たりと、行幸を楽しんだのかもしれません。
紫式部
石山寺が人気を集める理由の一つに「紫式部ゆかり」だからかもしれません。
そにゆかりとは、「源氏物語」の着想を石山寺で得たからです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/紫式部
https://ja.wikipedia.org/wiki/源氏物語
源氏物語の起筆については、「石山寺縁起絵巻」や源氏物語の注釈書である「河海抄」に記述されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/石山寺縁起絵巻
https://ja.wikipedia.org/wiki/河海抄
平安時代寛弘元年(1004)紫式部は新しい物語を作るために石山寺に七日間の参籠をしていた。村上天皇皇女選子内親王がまだ読んだことがない珍しい物語を一条院の后上東門院に所望したが、手許に持合わせのなかった上東門院が女房の紫式部に命じて新作の物語を書かせようとしたので式部は祈念のため籠ったのである。折しも八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた式部の脳裏にひとつの物語の構想が浮び、とりあえず手近にあった大般若経の料紙に『今宵は十五夜なりけりと思し出でて、殿上の御遊恋ひしく…』と、ある流謫の貴人が都のことを想う場面を書き続けていった。源氏物語はこのように書き始められ、その部分は光源氏が須磨に流され十五夜の月の都での管絃の遊びを回想する場面として須磨巻に生かされることになった。
源氏の間
本堂の相の間にある「源氏の間」。
この部屋に参籠し、中秋の名月が湖面に映る景色に魅入られ、源氏物語の着想を得たそうです。
この部屋は天皇や皇族、貴族、高僧などの身分の高い人々が使用していたとされ、紫式部の位の高さが伺えます。
また鎌倉時代には「源氏の間」と既に呼ばれていたそうです。
その他
くぐり石
ここの岩は全部大理石で、くぐり岩は自然にこの形状になったそうです。
密蔵院(島崎藤村ゆかりの家)
東京で教師をしていた藤村は教え子と愛したことで自責の念から教師を辞め関西漂泊の旅に出ました。
そして22歳の時にこの地に泊まったそうです。
その際に愛読する「ハムレット」を石山寺に献じ、密蔵院にて2ヶ月近く寄宿生活を送りました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/島崎藤村
無憂園
石山寺の奥には自然を感じる庭園がありました。
1月に参拝したので、少し落ち着いた雰囲気です。
季節によって様々な顔を見せてくれそうです。
梅開花
正月の三が日なのに少し暖かかったので一部ではもう梅が咲いてました。
こぼればなし
多宝塔の近くに「若宮」と呼ばれる小さな祠がありました。
建立は平成14年(2002年)と新しいのですが、説明の立て札には興味深いことが書かれていました。
祭神に天照大神を拝し、壬申の乱で亡くなった大友皇子(弘文天皇)を崇めており、古来より寺僧によって「手厚く」「密かに」供養されてきました、とあります。
石山寺の近くには「瀬田唐橋」があり、ここは大友皇子と大海人皇子(後の天武天皇)が壬申の乱において最後の決戦をした場所です。
壬申の乱は大海人皇子が勝利しましたので、大友皇子は謀反人とみなされるので、供養は「密かに」行われたのだと思います。
また、「手厚く」供養されたとあるので、もしかするとこの地では慕う人が多く人望があったのかもしれません。