史跡紹介
【石山寺】滋賀県が誇る日本最古の多宝塔を有する寺
探訪日:2016年1月3日
掲載日:2016年5月16日
歴史
当寺蔵所の「石山寺縁起絵巻」によりますと、良弁が聖武天皇の勅願により天平19年(747年)に開基したと伝わります。
東大寺大仏建立との関係
なぜこの地に建立したのかは東大寺の大仏が関わっています。
当時、東大寺の大仏建立のために大量の黄金が必要でした。
そのため聖武天皇は良弁に命じて、吉野の金峰(峯)山に黄金を産して欲しいと祈らせました。
すると良弁にお告げが下されるのです。
「我が山の金は弥勒菩薩がこの世に出現された時に地を黄金で覆うために用いるので使うことができない。近江国志賀郡瀬田江あたりに老人が座っている石があるので、そこへ行って祈るとよい。」
そのお告げ通りの場所に行き如意輪観音像を安置し祈りを捧げたところ、陸奥国より黄金が献上されたのです。
そして如意輪観音像を安置した場所に堂を建立したのが石山寺の始まりとされています。
良弁
良弁は奈良時代の華厳宗の僧で、東大寺建立の功績により初代別当にもなっています。
宝亀4年(773年)には、 僧正に任命されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/良弁
https://ja.wikipedia.org/wiki/別当
https://ja.wikipedia.org/wiki/僧正
伽藍の整備拡張
天平宝字5年(761年)に造寺司の一つである「造石山寺所」という役所のもとで伽藍の整備・拡張が行われました。
ちなみに「造東大寺司」の一部局に「造石山寺所」があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/造寺司
慶長年間(1596年〜1615年)の大改修
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に亡くなった後、子供の秀頼が後を継ぎました。
ただ、秀頼は幼いため後見人である母の淀殿が主導権を握ります。
その後、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いがあり、慶長8年(1603年)に徳川家康が江戸幕府を開きます。
ただ、豊臣家には莫大な資産があり、これが幕府への脅威につながると考えた家康は、資産の浪費を目論みます。
それが、秀頼・淀殿の名の下に各地の寺社仏閣の修理・改修を行うことでした。
石山寺もその恩恵を受けた寺の一つだと考えられます。
醍醐寺との関係
醍醐寺と石山寺は山を隔てて東西に位置し、地理的にも近い場所にあります。
そのため平安時代には醍醐寺の開祖・聖宝が石山寺の座主を務め、真言密教寺院となったと言われています。
醍醐寺とは位置が近かったのですが、幸いなことに山を隔てているので、応仁の乱の兵火には見舞われることなく済みました。
そのため建造物以外にも貴重な文献や経典が残っています。
地質
石山寺の珪灰石は天然記念物の指定を受け、日本の地質百選にも選ばれています。また、石山寺の名前は、この特殊な地質の上に建立されていることから由来しています。
東大門(重要文化財)
鎌倉時代初期の建久元年(1190年)に源頼朝の寄進により建立されたと言われています。
その後、慶長年間の大改修によって現在の姿をとどめています。
また、左右の仁王像から「仁王門」とも呼ばれています。
この像は運慶と長男・湛慶の親子で制作されたと伝えられていますが確かな証拠は無いです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/運慶
https://ja.wikipedia.org/wiki/湛慶
本堂(国宝)
本堂は複数の施設で構成されています。
山を背に立っているのが正堂で、崖側に建っているのが礼堂です。
その間を繋いでいるのが相の間になります。
正堂(寄棟造)
桁行(正面):7間
梁間(奥行):4間
屋根:寄棟造
礼堂
桁行(正面):9間
梁間(奥行):4間
屋根:寄棟造
建築方法:懸造(舞台造)
相の間
梁行(正面):1間
屋根全体は桧皮葺でしたが、鬼瓦はありました!
本堂の建立自体は古いのですが、正しい年代はわかっていません。
天平宝字5年(761年)には伽藍の整備が行われ本堂は拡張されました。
その後、承暦2年(1078年)の火災によって焼失し、永長元年(1096年)に再建されています。
礼堂と相の間は慶長7年(1602年)に淀殿によって建て替えられました。
また、本堂の相の間の額には秀頼の母である淀殿によって当寺を再興した内容が書かれています。
江州北郡浅井備前守息女亜相
当寺諸伽藍者
秀頼卿御母堂為二世安楽御再興也
http://www.ishiyamadera.or.jp/blog/2010/10/post-121.html