史跡紹介
醍醐天皇と太閤秀吉に愛された醍醐寺の歴史を訪ねる。
探訪日:2016年1月2日
掲載日:2016年5月2日
仁王門(西大門)
豊臣秀頼により慶長10年(1605年)に再建されました。
左右に安置されている金剛力士像は、平安時代の長承3年(1134年)の造立です。
金剛力士像はもともと南大門に祀られていたのを、再建された仁王門に安置されました。
そのため仁王門より500年程古い時代の造立になります。
清瀧宮本殿(重要文化財)
神仏習合により醍醐寺の鎮守となった清瀧権現を祀っている鎮守社です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/鎮守神
平安時代の永長2年(1097年)に上醍醐より勧請されました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/勧請
社殿の前では清瀧会(桜会)が行われたりしたのですが、応仁の乱の影響で焼失しました。
現在の社殿は室町時代の永正14年(1517年)に再建されたものです。
ちなみに「清瀧会(桜会)」は現在でも行われ、毎年4月1日に実施されています。
現在の佇まいからは想像できませんが、残っている装飾から当時は鮮やかな建物だったのが伺えます
五重塔(国宝)
五重塔の建立は承平元年(931年)、前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るため第三皇子の代明親王が発願しました。
その後、代明親王の死去による影響などで20年後の天暦5年(951)に完成しています。
応仁の乱の影響で醍醐寺にある当時の建物の多くが焼失しましたが、この五重塔は当時のまま残っています。
平安時代の建造物は京都でも貴重です。
また塔内部には両界曼荼羅や真言八祖が描かれており、日本密教絵画の源流だと言われています。
高さは約38メートルあり、目の前に立ってみると大きさに圧倒されました!!
上層になるに従い塔の面積が小さくなる逓減率を用いて、どっしりとした安定感のある見た目になっています。
醍醐寺の五重塔の逓減率は0.61です。
醍醐寺の五重塔は日本三名塔の一つに数えられています。
※日本三名塔は法隆寺(奈良県)、瑠璃光寺(山口県)、醍醐寺(京都府)と言われていますが、醍醐寺ではなく羽黒山(山形県)の五重塔という説もあります。
金堂(国宝)
豊臣秀吉の命により、慶長3年(1598年)に紀州の湯浅にある満願寺からの移築が開始され、2年後の慶長5年(1600年)に移築が完了しました。
秀吉自身は慶長3年に亡くなったので、醍醐寺に移された金堂を見ることなくこの世を去っています。
建物は横に大きく、全体的に朱色が少し残っておりますが、装飾は簡素な感じがしました。
入母屋造の屋根は高さがあり傾斜が美しく、また横にすらっと伸びているのが優美です。
その他
観音堂
不動堂
鐘楼
弁天堂
上醍醐
今回は時間の都合で上醍醐の参拝はできませんでした。
また、正月に訪れたので霊宝館も開いておりませんでした。
醍醐寺は広く見る場所が多いので、次回は計画的に参拝をしたいと思います。