史跡紹介
【三井寺(園城寺)】数々の伝承に彩られた大寺院
探訪日:2016年3月20日
掲載日:2016年11月23日
歴史
当寺の起り
伝承では、壬申の乱で天武天皇との戦いに敗れ自害した大友皇子(弘文天皇)の息子である大友与多王が父の供養のために、天智天皇が持っていたとされる弥勒像を本尊として寺の建立を発願したとされています。
そして、寺伝によると朱鳥元年(686年)に、敵対していた天武天皇の勅願がなされ建立が許可されました。
また、園城寺と三井寺の名称は天智・天武・持統の3代が関わっています。
「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから「御井」の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在の三井寺には創建時に遡る遺物はほとんど残っていない。
大友氏
別の伝承によると漢系渡来人の大友村主が建立したとされています。
大友氏は近江国に移住してきた氏族で、近江朝廷の大友皇子を支持していたと見られています。
寺伝によると天武天皇の勅願によって建立が許可された三井寺は大友氏の氏寺になっています。
智証大師円珍
円珍は三井寺の発展の礎を築きました。
円珍(弘仁5年3月15日(814年4月8日)- 寛平3年10月29日(891年12月4日))は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号は智証大師(智證大師)。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
円珍は15歳で比叡山に登り、初代天台座主の義真に入門しました。
その後、唐への留学と日本各地での修行を経て、貞観元年(859年)に三井寺に唐院を建立し、唐から請来した経典や法具などを収めさせ、寺院整備にあたりました。
また、寛平8年(891年)には三井寺を延暦寺の別院と定めています。
比叡山延暦寺との対立
円珍の没後に比叡山内で、円珍の門流と慈覚大師円仁の門流が不和となり、争いが絶えなくなりました。
そして、正暦4年(993年)には2派の対立が決定的になり、円珍門下は一斉に比叡山を下り、三井寺に移りました。
延暦寺を「山門」、三井寺を「寺門」と称していたことから、この争いは「山門寺門の抗争」と呼ばれます。
2派の対立は激しく、永保元年(1081年)には山徒門衆によって三井寺の焼き討ちが行われました。
このような大きな争いや、小さな諍いが中世末期まで続きます。
貴族の尊崇を集めた平安時代
中世以降は源氏など武家の信仰も集めた。源氏は、源頼義が三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代の尊崇が篤く、源頼政が平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝の意思を継いだ北条政子もこの方針を継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺を大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京の御家人に命じて直ちに再建させている。
豊臣秀吉により寺領没収
文禄4年(1595年)、三井寺は豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺の本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。