史跡紹介
醍醐天皇と太閤秀吉に愛された醍醐寺の歴史を訪ねる。
探訪日:2016年1月2日
掲載日:2016年5月2日
歴史
醍醐寺は貞観16年(874年)、弘法大師・空海の孫弟子にあたる理源大師・聖宝によって創建されました。
この地はもともと笠取山と呼ばれ、山岳信仰の対象とされていた場所でした。
伝承によると、聖宝がこの山を登った際に白髪老人の姿をした横尾明神に出会い、湧き水の出る当山を譲り受けました。
そして頂上にお堂を建てて、准胝観音と如意輪観音の両観音像を安置し、その地を「醍醐山」と名付けたのが醍醐寺の始まりとされています。
醍醐天皇の厚い庇護を受けた寺
当初は山頂の上醍醐を中心に修験道者の霊場として発展していきます。
延喜7年(907年)には醍醐天皇の勅願寺となり薬師堂が建立されます。
続いて五大堂も建てられ上醍醐の伽藍が完成しました。
醍醐天皇の勅願寺となったほぼ20年後の延長4年(926年)には、山麓に釈迦堂が建立されました。
天暦5年(951年)には後に日本三名塔(五重塔)に数えられる五重塔が建立され、その後、続々と建造物が建てられ、現在の下醍醐の地に大伽藍が完成しました。
醍醐寺は醍醐天皇の大11皇子にあたる朱雀天皇や、その子である村上天皇によっても手厚い庇護を受けました。
皇室以外からの貴族や武士にも支えられながら発展は続き、永久3年(1115年)には三宝院が建てられ、醍醐寺の基礎が確立されました。
醍醐寺を再び蘇らせた豊臣秀吉による「醍醐の花見」
醍醐寺も常に安泰だったわけではなく、何度かの戦乱によって伽藍の焼失を受けています。
特に「応仁の乱」は京都全体が被害を受け、洛南である醍醐も例外なく大きな戦火に見舞われました。
下醍醐はほとんど焼失したのですが、五重塔は戦火を免れ、現在も昔の姿をとどめています。
慶長3年(1598年)の春、天下統一を成した豊臣秀吉が晩年に三宝院裏の山麓にて「醍醐の花見」を催します。
北政所や淀殿、秀頼などの近親者以外にも、諸大名の家族も招き1,300人以上が参加したと言われています。
また、醍醐寺はこの花見のために整備・復興され、伽藍全体に700本の桜が植樹されました。
秀吉は醍醐寺に足繁く通い、この改修事業を自ら指揮しています。
この花見がきっかけとなり醍醐寺は復興を果たします。
紀州からお堂が移築されたり、金堂や三宝院は再建が行われるなどを経て、現在の醍醐寺が完成しました。
秀吉は「醍醐の花見」開催から約5ヶ月後に没しました。
露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢
(豊臣秀吉 辞世の句)
三宝院
鳥羽上皇は康治2年(1143年)に当院を勅願寺にしています。
その後、秀吉により再建が行われたため、各所に菊紋と桐紋が飾られています。
大玄関(重要文化財)
伽藍へ入るための玄関口です。
残念ながら大玄関から入った先は写真を撮ることができませんでした。
伽藍
伽藍内には表書院(国宝)や庭園などがあります。
庭園は「醍醐の花見」のために、秀吉が自ら設計に関わったとされています。
表書院の縁側には座ることができ、庭園内をゆっくり眺めることができます。
今回は特別公開エリアは非公開でしたので、全てを拝観することはできませんでした。
次の機会には特別公開エリアが拝観できる時に三宝院のみを堪能するのも、花見をした秀吉気分を味わえるので趣があるかもしれません。
唐門(国宝)
慶長4年(1599年)に建立された豪華絢爛な唐門!
庭園内からも見え、仁王門へ続く道からも見ることができます。
現在の唐門は平成22年(2010年)に修復が行われ、創建当時の姿を再現しています。
きれいに黒漆で塗られており、透かし彫りには金箔が施されています。
意匠を凝らした作りが参拝者に驚きを与えます!