史跡紹介
【般若寺】驚きの高さを誇る「十三重石宝塔」を有する寺
探訪日:2015年12月30日
掲載日:2016年3月15日
歴史
飛鳥時代の舒明元年(629年)に高句麗の僧 慧灌法師が「般若台」と呼ばれる精舎を創建しました。
奈良時代に入りますと、天平7年(735年)聖武天皇が卒塔婆などの伽藍を建立し、平城京の鬼門鎮護のために紺紙金泥の「大般若経」六百巻を地中に納めたと言われています。
そして、この経題に因み「般若寺」と呼ばれるようになりました。
ただ、これらの歴史を立証する史料は無く、別の伝承によると、飛鳥時代の白雉5年(654年)に蘇我日向が孝徳天皇の病気平癒のために創建したとも言われています。
平安時代の治承4年(1180年)には有名な「南都焼討」が起こります。
平清盛の命を受けた平重衡ら平氏軍が、東大寺・興福寺など奈良(南都)の仏教寺院を焼討にした事件。
この事件で戦地となり、伽藍は焼失しました。
鎌倉時代には礎石だけの荒廃した状態から、建長5年(1253年)頃に東大寺再建のため来日した宋人の石工・伊行末が十三重石宝塔の建立に着手し、僧・良恵が完成させました。
その後、西大寺の僧・叡尊、忍性が、文永4年(1267)に本堂などの主要な建物を復興させました。
少し話は逸れますが、般若寺の近くに鎌倉時代に建てられた「北山十八間戸」と呼ばれる施設がありました。
この施設は忍性によって建てられ、ハンセン病などの不治の病を患った方を収容する救済施設でした。
今で言う社会福祉活動に忍性と師の叡尊は力を入れていたみたいです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/忍性
https://ja.wikipedia.org/wiki/叡尊
室町時代後期の延徳2年(1490年)には火災があり、永禄10年(1567年)には松永久秀と三好三人衆との戦乱(東大寺大仏殿の戦い)によって楼門、経堂以外の主要伽藍が焼失しました。
明治時代には仏教施設を認めない廃仏毀釈によって、破壊が進み大打撃を受けました。
第二次世界大戦後の昭和39年(1964年)以降に復元修理が行われ、現在の姿に復興しています。
本堂(奈良県指定文化財・江戸時代)
江戸時代の寛文7年(1667年)に妙寂院高任と妙光院高栄の推進によって再建されました。
入母屋造の屋根は綺麗なカーブを描き、突き出た向拝にスラリと伸びていて、美しい佇まいをしています。
破風にある拝懸魚は細やかな造形をしています。
蟇股には獅子が彫られています。
本堂内に安置されている八字文殊菩薩騎獅像(重要文化財)と関係あるのでしょうか?
本堂内には仏像などが安置されています。
特に気になった宝物を紹介します。
八字文殊菩薩騎獅像(鎌倉時代)
金色が残っている綺麗な文殊菩薩像です。
特に獅子は直立不動ではなく、足が一歩前に出て、横にいる者を威嚇するような首の角度なので、今にも動き出しそうです。
元亨4年(1324年)に、文観上人が後醍醐天皇の御願成就の発願のために、藤原兼光が施主となり、大仏師の康俊が造りました。
ちなみに康俊は慶派の正系で、運慶の孫にあたります。
唐櫃(鎌倉時代)
一見すると古い大きな木箱なのですが、その歴史を知ると重要な宝物だとわかりました。
元弘元年(1331年)8月に、後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕計画が密告される「元弘の変」が起こります。
後醍醐天皇は山城国の笠置山にて挙兵をしたことで、皇子である大塔宮護良親王や楠木正成などが呼応してそれぞれ挙兵をしました。
「太平記」の五巻によりますと、護良親王は笠置山の戦いを注視していましたが陥落してしまい後醍醐天皇が捕らえられたので、般若寺に身を潜めました。
鎌倉幕府側は一乗院の候人である按察使の法眼好専が五百の兵を率いて護良親王の探索に来ました。
護良親王は防戦しようと考えたのですが、敵兵が満ち満ちていたので難しいと考え、般若寺堂内にあった大般若経の唐櫃に潜み危難を逃れました。
(太平記には唐櫃に入って危難を逃れる様子が、もっと詳しく書かれています。)
この一連の危難回避の出来事は大正時代に尋常小学読本「般若寺の御危難」として絵付きで載っており、尋常小学唱歌「大塔宮」では「般若寺あはれ」と歌われています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/護良親王
叡尊上人像
白毫寺の後に般若寺に行ったので本日2度目の登場。
別々の史跡で歴史の繋がりを知ると、大きな感動を覚えます。
楼門(国宝・鎌倉時代)
数々の災害や戦火をくぐり抜けて、当時の姿を留める楼門。
楼閣建築(重層の建物)と考える「楼門」では日本最古の建築物です。
当時の姿を留める楼門の美しさから鎌倉時代の般若寺を想像するのは楽しいです。
今ならCG技術が発達しているので南都再現に期待しています。
十三重石宝塔(重要文化財・鎌倉時代)
大きな石塔があるのは聞いていたのですが、想像していたより大きかったです!
これほど大きな石塔は今まで見たことがありません。
奈良時代には聖武天皇が大般若経を地底に収めた上に塔を建てたと伝わりますが、現在の塔は鎌倉時代に宋人の石工である伊行末が建立しました。
初重軸には如来が彫られています。
東:薬師如来
西:阿弥陀如来
南:釈迦如来
北:弥勒菩薩
経蔵(重要文化財・鎌倉時代)
切妻造の経蔵。
十一面観音菩薩立像(室町時代)が奉納されていたのかわかりませんが、扉の前に写真が置いてありました。
寺宝特別公開などの時に見れるかもしれません。
笠塔婆(重要文化財・鎌倉時代)
笠塔婆形式の石塔では日本最古とされています。
建立者は十三重石宝塔を建てた伊行末の子である伊行吉です。
父の一周忌に追善と現存の母の供養のために建立しました。
境内
鐘楼
元禄7年(1694年)に建立されたとされる。
梵鐘は江戸初期(1600年頃)のもので、西大寺の奥の院から来たと伝わっています。
また、元禄の工事の際に地中の石室から、西大寺の僧・忍性が埋葬した「如意宝珠」が見つかっています。
残念ながら如意宝珠は失われましたが、納入箱は現存しています。
石塔部材群
般若寺の近くに戦国武将の松永久秀が築いた多聞山城がありました。
しかし久秀は織田信長に敗れたため、多聞山城は打ち壊されます。
般若寺境内に散々する五輪塔や石仏などの部材は、多聞山城後から寺へ奉納されたものです。
藤原頼長の供養塔
「日本一の大学生」と称された秀才である平安時代末期の公卿。
苛烈で自他共に厳しい性格から「悪左府」とも呼ばれていました。
保元の乱の首謀者とされ、合戦の際に矢が刺さり重傷を負って逃げ続けたが力尽き、般若寺の近くの「般若山のほとり」に葬られました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原頼長
https://ja.wikipedia.org/wiki/保元の乱
平重衡の供養塔
南都焼討行った平家の武将。
源義経の鵯越で有名な「一ノ谷の戦い」で重衡は囚われ鎌倉に送られたのですが、南都の僧が焼討の恨みから身柄を引き取り木津川の河原で処刑しました。
重衡の首は持ち帰られ、般若寺の門前に晒したと言われています。
かつて「重衡の首塚」があったそうなのですが、現在場所は不明です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/平重衡
https://ja.wikipedia.org/wiki/一ノ谷の戦い
鎮守社(桃山時代)
伊勢、春日、八幡の三社を合祀するための社。
真言律宗において神道も信仰の対象として勧められていました。
明治時代の神仏分離令によって切り離された寺は多いのですが、幸い般若寺には残っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/真言律宗
https://ja.wikipedia.org/wiki/両部神道
https://ja.wikipedia.org/wiki/神仏分離
その他
宝蔵堂横の横に鬼瓦が置かれていました。