史跡紹介
【瀬田の唐橋】京と東国を結ぶ歴史的に重要な戦いが繰り広げられた橋
探訪日:2016年1月3日
掲載日:2016年6月6日
瀬田橋にまつわる戦いの歴史
古来より京の都と東国を結ぶ交通の要衝だったので「唐橋を制する者は天下を制す」と言われていました。
そのため、歴史的な数々の戦乱の舞台となっています。
壬申の乱【天智天皇10年(671年)】
天智天皇の息子である大友皇子(後の弘文天皇)に反旗を翻した、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)による内乱。
原因は王位継承者争いとされているが諸説あります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/壬申の乱
壬申の乱の最後の決戦場は瀬田の唐橋でした。
大友皇子側は橋板を外し大海人皇子を待ち受けたのですが突破され、近江朝廷軍が大敗するのです。
そして翌日には大友皇子が首を吊り自決をしたことによって壬申の乱は終結を迎えます。
その後、都は近江から飛鳥に戻り、大海人皇子は天武天皇となり王位を継承しました。
亡くなった大友皇子は瀬田の唐橋の近くにある石山寺の寺僧によって「手厚く」「密かに」供養されてきたそうです。
石山寺「若宮」
藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)【天平宝字8年(764年)】
孝謙太上天皇と道鏡に対して、藤原仲麻呂が軍事力によって政権を奪おうとした反乱。
この争いは仲麻呂が権力を手にし、それを奪還しようとした戦いです。
仲麻呂は孝謙天皇の息子である大炊王に私邸を提供するなどして支援を続け、
順調に皇太子となりそして淳仁天皇として天皇に即位しました。
仲麻呂は淳仁天皇より「恵美押勝」の名を賜り、太政大臣にまで上り詰めました。
しかし、孝謙上皇の寵愛を受けていた道鏡に押勝は危機感を覚え、淳仁天皇を通じて孝謙上皇に道鏡に対する態度を改めるよう進言させましたが、孝謙上皇は怒り二人への抑圧を強める結果となりました。
これを機に押勝は軍事力によって孝謙上皇と道鏡に対抗するのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原仲麻呂の乱
押勝は宇治から近江に向かい琵琶湖の南に出ようとしたのですが、孝謙上皇側に先回りされ瀬田の唐橋を焼かれました。
東山道への進路を塞がれた押勝は琵琶湖の北にある近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をしますが敗北し、琵琶湖に舟を出して逃げたのですが、最後は官兵に捕らえられ斬首されました。
治承・寿永の乱【治承4年(1180年)】
一般的には「源平の戦い」と呼ばれ、源義経や平知盛などが登場する有名な戦いです。
源頼朝が鎌倉で戦備を整え戦況を伺っている最中に、木曾義仲(源義仲)が京へ攻め入り平氏を追い出したのです。
義仲は平氏討伐の一番手に名乗りを上げたのですが、後白河法皇からの反発に合い人気が地に落ちたので、頼朝の上洛待望論が出てきました。
頼朝は義経などを京に向かわせ義仲を討伐します。
頼朝軍は平氏討伐の名乗りを上げ、一ノ谷の戦いや屋島の戦い、壇ノ浦の戦いを経て平氏討伐に成功します。
その後、頼朝は京で人気が出た義経を危険視し、最後は異母弟である義経を自害に追いやるのです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/治承・寿永の乱
読了本「義経」
瀬田の唐橋は義仲側の今井兼平と頼朝側の源範頼との戦いにおいて登場します。
兼平は橋板を外して防戦したのですが、結局この戦いに敗れ義仲と合流しますが、粟津にて義仲が討たれると、後を追って自害します。
討たれた義仲の墓は「義仲寺」にあるのですが、実は松尾芭蕉の墓もあります。
芭蕉は大坂で亡くなったのですが、義仲と共に葬られることを遺言していたので、門人によって遺体を大坂から義仲寺に運び、義仲と同じ場所で埋葬されました。
木曾殿と背中合わせの寒さかな
これは芭蕉の門人である島崎又玄が残した句です。
承久の乱【承久3年(1221年)】
朝廷側である後鳥羽上皇が鎌倉幕府側の北条義時に対して討伐の兵を挙げた戦い。
結果は朝廷側が敗れたことによって権力を制限されることとなり、幕府に従属する形となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/承久の乱
美濃や尾張にて敗れた朝廷軍は宇治・瀬田の川を挟んで防戦します。
今回も防戦する朝廷側が橋板を外す作戦を行っています。
また、幕府側は豪雨のため川が増水し渡河できずにいました。
しかし、佐々木信綱が溺死者を出しながらも強引に渡河してきたため朝廷側は敗走し、幕府側は入京に成功します。
建武の戦い【建武4年(1336年)】
鎌倉幕府の滅亡に力を合わせた楠木正成や新田義貞、足利尊氏でしたが、幕府滅亡後に後醍醐天皇が新政治である「建武の新政」を開始したことにより、尊氏が反旗を翻します。
尊氏は湊川の戦いにて正成と義貞を破り入京し、後醍醐天皇から光明天皇に皇位を変えました。
この戦いで朝廷側は瀬田川を挟んで尊氏の弟の足利直義と交戦しています。
山崎の戦い【天正10年(1582年)】
羽柴秀吉が天下を取る礎となった戦い。
本能寺にて明智光秀が織田信長を殺害し京と近江を抑え、次いで信長の本拠地である安土を抑えます。
その間、中国地方の毛利氏と戦っていた秀吉が「中国大返し」と呼ばれる機敏さえ機内に戻り、光秀討伐の旗頭になることに成功します。
光秀は新政権を整える間も無く山崎の地で秀吉と戦うことになります。
結果は秀吉が勝利し、光秀は敗走中に落ち武者狩りに合い絶命しました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/山崎の戦い
光秀は安土を抑えるのに時間がかかってしまいました。
それは勢多城主の山岡景隆が光秀の勧誘を断り瀬田橋を落としたからです。
光秀はこのような妨害を受けたことにより安土進行が遅れ、新政権整備の時間が無くなったと言われています。
また、現代の橋が架かっている場所へ移したのは信長で、以前まではもう少し南側に架かっていたそうです。
藤原秀郷
通称は田原藤太(俵藤太)。
田原郷にいた藤原家の長男(藤太)の秀郷。
平将門討伐の活躍によって従四位下が与えられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤原秀郷
伝説では瀬田の唐橋に住まう大百足を退治したとされる。
瀬田橋に六十六メートルの大蛇が巻きついていたのですが、秀郷は気にせず大蛇の背を越えて行きました。
すると、大蛇が老人の姿に変え話し始めます。
「三上山に巻きついた大百足が琵琶湖の魚を食い尽くすので困っている。そこで大蛇に姿を変え豪傑を待っていたのだ。」
そして秀郷は大百足大事を引き受け、弓矢で大百足の眉間を射抜き倒したのです。
老人は秀郷の活躍を讃え、瀬田橋の下にある竜宮に案内し、もてなしたそうです。
この伝説は大百足を平将門に、竜宮を朝廷に例えているとされています。
急がば回れ
「武士の やばせの舟は早くとも 急がば廻れ 瀬田の長橋」
江戸時代初期の連歌師である宗長の歌です。
「急がば回れ」の語源とされています。
京都へ上るには矢橋から琵琶湖を横断した方が早いのですが、比叡山からの強風(比叡おろし)がきついので船では遅れてしまいます。
瀬田からの陸路の方が風の影響を受けずに唐橋を渡ることができます。
史跡情報
瀬田の唐橋
住所:滋賀県大津市瀬田2丁目