史跡紹介
【白毫寺】「えんまもうで」で有名な奈良を眺望できる山寺
探訪日:2015年12月30日
掲載日:2016年3月7日
歴史
霊亀元年(715年)、天智天皇の第七皇子・志貴皇子が亡くなった後、天智天皇の勅願で志貴皇子の山荘跡を寺にしたと言われていますが、空海の師である勤操大徳の岩淵寺の一院とするものなど諸説あります。
平安時代になると平安遷都にともない寺も寂れていきましたが、鎌倉時代になると西大寺の叡尊によって再興されました。
弘長元年(1261年)には叡尊の弟子である道昭が宋から「宋版一切経」の摺本を持ち帰り経蔵に収めたので「一切経寺」とも呼ばれました。
室町時代の明応6年(1497年)には古市・筒井勢による戦乱で建物が焼失し衰退していきますが、江戸時代の寛永頃に興福寺の空慶上人によって復興され、現在の姿を留めています。
白毫とは
仏の眉間にある光明を放つという、白くて細い右巻きになっている毛のことです。
眉間白毫相とも言われ、仏の三十二相の31番目になります。
参道から寺院まで
白毫寺へと続く石階段の参道は、近代的な建物があまり見えないため、建立当時の情景を想像させてくれます。
山門がさらにいい雰囲気を醸し出しています。
若草山・春日山と続き南に連なる高円山の山麓にあるので、参道の途中に後ろを振り返ると奈良市街を一望できます。
本堂(奈良市指定文化財・江戸時代:17世紀前半)
江戸時代の白毫寺再興時の建物と言われています。
奈良近郊の寺院では中世以降の本堂を再建する際には、奈良時代以来の伝統を引き継いだ例が多くみられます。
この本堂も「三間四面」の復古的な形式が用いられています。
蟇股はそれ程彫り込まれていませんが、二層に連なる垂木と屋根の曲線には美しさを感じました。
鬼瓦は天狗の様な鼻を持っているのが、興味深かったです。
本堂内には江戸時代に造られたとされる勢至菩薩像と観音菩薩像が安置されています。
どちらの菩薩も膝をつき腰をかがめた珍しい姿勢をしています。
宝蔵
宝蔵内には多くの像が安置されており、そのほとんどが重要文化財です。
特に目を引いたのが「閻魔王坐像(重要文化財・鎌倉時代)」と閻魔王と対をなす「太山王坐像(重要文化財・鎌倉時代)」です。
金剛力士像のように阿吽の表情に迫力がある素晴らしい像です。
顔や冠には少し色が残っているので、当時は色鮮やかだったと思われます。
また、1月16日と7月16日には「えんまもうで」が開かれます。
鎌倉時代に白毫寺を再興した叡尊の像、「興正菩薩叡尊坐像(重要文化財・鎌倉時代)」もあります。
長く垂れた眉毛と、深い人中が特徴的です。
高名な僧なので、他の寺院でも叡尊の像を見る機会があると思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/叡尊
境内
境内には他にも様々な物があります。
御影堂内には江戸時代に白毫寺を復興させた空慶上人の像が安置されています。
室町時代に造られた十王地蔵石仏です。
全体の摩滅が激しいのですが、鎌倉時代に造られた不動明王石仏です。
少し分かりにくいかもしれません。。。
ここには室町時代に建立された多宝塔があったとされます。
実は焼失したわけではなく大正6年(1917年)に兵庫県宝塚市切畑長尾山にある藤田伝三郎男爵所有の山荘に移築されたそうです。
ただ、2002年3月19日に山火事があり、残念ながら多宝塔は全焼しました。。。
ちなみに、藤田伝三郎とは明治時代の実業家で、集めた美術品などは大阪市都島区にある「藤田美術館」に展示されています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤田伝三郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/藤田美術館
天然記念物の五色椿です。
季節が来れば美しく咲くことでしょう。