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史跡紹介

【義仲寺】松尾芭蕉が愛し最後に供養される場所に選んだ寺

【義仲寺】松尾芭蕉が愛し最後に供養される場所に選んだ寺

墓所芭蕉源氏

探訪日:2016年1月3日

掲載日:2016年6月8日

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創建から現在まで

創建年代は不明。
一説には治承・寿永の乱じしょう・じゅえいのらん(源平の戦い)の1つである「粟津あわづの戦い」によって自害した木曾義仲を供養するため愛妾あいしょうの巴御前が日々供養したことが始まりとされています。
 
その他では、室町時代末期の天文22年(1553年)頃に佐々木六角氏が義仲を供養するために建立し、石山寺の末寺としたとも言われています。
 
確かなことでは、江戸時代には三井寺(園城寺おんじょうじ)の末寺になり、元禄2年(1689年)に松尾芭蕉が滞在し、元禄4年(1691年)には芭蕉のために「粟津草庵(後の無名庵)」建てられています。
 
芭蕉の死後は荒廃してしまうのですが、京都の俳僧である蝶夢ちょうむが、明和6年(1769年)〜寛政3年(1791年)をかけて再興し、寛政5年(1793年)には芭蕉百回忌を行っている。
 
その後、安政3年(1856年)には類火るいか(もらい火)にあうが地元の商人によって再建されている。
 
しかし再び荒廃の危機に瀕しますが、昭和40年(1965年)に再建されました。
その際に三井寺から独立し、単独寺院となっています。

翁堂
芭蕉を祀る翁堂
翁堂内部
翁堂内部には弟子たちが飾られています
翁堂天井
伊藤若冲じゃくちゅうが描いた天井画

 
 

木曾義仲(源義仲)

河内源氏の流れを汲む一族。
信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曾町)出身のため「木曾義仲」とも言われている。
父親は源義賢みなもとのよしかたで、義賢の兄は源義朝みなもとのよしともです。
源頼朝と源義経は義朝の子供なので、義仲と頼朝・義経は従兄弟にあたります。
 
義仲が歴史の表舞台に登場するのは「治承・寿永の乱」において、平氏を京から追い出し、頼朝に先駆けて入京を成功させたところからです。
「平家物語」によると義仲は入京した後、朝廷より「朝日将軍」の称号を賜ったとされています。
ただその後は京の治安維持を保てず、また後白河法皇の信任を得られなかったので、朝廷は頼朝に上洛を即すことになり、義仲は京を追われ最後は粟津にて自害しました。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/源義仲
 
司馬遼太郎の「義経」にも義仲は登場します。
田舎侍で粗野なところがあり、頼朝に追い出された叔父である源義家にそそのかされて京に向けて兵を出したように描かれていました。
入京に成功した後も都の作法も知らない田舎者として描かれており、連れてきた兵も多くの狼藉を働いたため、京では人気が無かったそうです。
逆に、義仲を討伐のために入京する義経は京で異常な人気になり、後白河方法などの朝廷からも気に入られましたが、そのために頼朝からは危険視され最後は自害に追い込まれました。
 
源氏同士の争いが目立った源平の戦い。
義仲・義経・頼朝はこのような人物に映りました。
 
粗野で無教養だが勇敢で統率力のある義仲。
平氏討伐のみを志した戦の天才義経。
優れた政治感覚で天下への道筋を描いた頼朝。
 
ちなみに義経には巴御前は登場しませんでした。
 
読了本「義経」

木曾義仲の墓
きちんと手入れされています

 
 

巴御前

実在の人物かは定かではないが「平家物語」や「源平盛衰記」には登場しています。
特に「源平盛衰記」には詳しい人物像が残されているそうです。
 
平家物語の人物像によると、
「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千の兵者つわものなり」
と記されています。
 
巴御前は宇治川の戦いで敗走した義仲と共に戦おうとしたのですが、
「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」
と言われ仕方なく落ち延びたそうです。
 
源平盛衰記によると、信濃国に行き、和田義盛の妻となり子を産み、91歳で生涯を終えたそうです。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/巴御前

巴塚
巴御前の供養のために建てられた巴塚

 
 

松尾芭蕉

江戸時代前期の俳人。
「おくのほそ道」など有名な紀行文を記し、日本各地で俳諧をしたことで有名です。
 
また、伊賀の生まれということもあり、調査のために日本各地を巡った「忍者」だったという説もあります。
 
https://ja.wikipedia.org/wiki/松尾芭蕉
 
芭蕉はこの義仲寺を気に入り、生前に度々訪れています。
そして大坂の地で亡くなったのですが、本人の遺志により弟子たちが亡骸を木曾義仲の隣で葬りました。

芭蕉の墓
ここには芭蕉の亡骸が眠っているそうです
芭蕉の墓の後ろ
後ろには「元禄七甲戌きのえいぬ十月十二日」と彫られている

 

又玄の句
芭蕉の門人である島崎又玄ゆうげんが残した句
「木曾殿と背中合わせの寒さかな」

 
 

義仲寺の感想

義仲の生き方に惹かれたのか、または義仲寺の雰囲気に心を奪われたのか定かではりませんが、日本各地を巡った芭蕉がこの地での供養を求めたのです。
ただ、義仲寺は何度も再興された経緯があるので、芭蕉が見た風景とは異なるかと思います。
それでもこの小さな寺にはそれぞれの時代を生きた人たちの物語が残されています。
 
信濃国木曾から京に出て、一時ですが英雄のように扱われ、最後は夢半ばでこの地で散った義仲。
その後、落ち延びさせた女性が弔いのために草案を結び、後に供養のための寺が建立されます。
そして時代を経て訪れた俳人が当寺を尊んだことにより現在まで続いたと考えると、歴史が紡がれている姿を見たような気がします。

芭蕉最後の句
芭蕉最後の句
「旅に病んで 夢は 枯野を かけ回る」

史跡情報

義仲寺

住所:滋賀県大津市馬場1丁目5-12

略式年表
  1. 旧石器時代

    西暦:〜紀元前1万4000年頃
    都:不明
  2. 縄文時代

    西暦:紀元前1万4000年頃~紀元前300年頃
    都:不明
  3. 弥生時代

    西暦:紀元前300年頃~250年頃
    都:不明
  4. 古墳時代

    西暦:250年頃~600年代の末頃
    都:不明
  5. 飛鳥時代

    西暦:592年~710年
    都:飛鳥京(大和国:奈良県明日香村)
    遷都(645年):難波宮(摂津国:大阪市中央区)
    遷都(655年):飛鳥京(大和国:奈良県明日香村)
    遷都(667年):近江大津宮(近江国:滋賀県大津)
    遷都(672年):飛鳥浄御原宮あすかのきよみはらぐう(大和国:奈良県明日香村)
    遷都(694年):藤原京(大和国:奈良県橿原市)
    乙巳いっし・おっしの変(645年)
    中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を暗殺した政変。
    蘇我氏の本宗家は滅亡した。
    蘇我氏などの飛鳥の豪族がいる場所から、難波宮に遷都(645年)。
    ・大化の改新(646年)
    乙巳の変後に改新の詔に基づく政治改革。
    天皇を中心とする中央集権を目指した。
    ・白村江の戦い(663年)
    朝鮮半島の白村江で行われた、倭国・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦争。
    しかし倭国・百済連合軍は敗戦。
    日本侵攻を防ぐため太宰府に水城を築き、九州沿岸には防人を配備した。
    さらに防衛のため、近江大津京への遷都も行っている(667年)。
    ・壬申の乱(672年)
    天智天皇の死後、大海人皇子(後の天武天皇・天智天皇の異母弟)が反乱を起こし、大友皇子(後に弘文天皇の称号を得る・天智天皇の息子)を自決に追い込んだ内乱。
    乱後、大海人皇子は天武天皇となり、飛鳥浄御原宮を造って即位した。
    ・大宝律令(701年)
    661年、天武天皇により律令制定の詔が出され、天武没後の689年に持統天皇により飛鳥浄御原令が施行された。
    ただ、まだこの段階では「令」のみで「律」は制定されていなかった。
    そして、701年に文武天皇により大宝律令が公布された。
    日本初の本格的な律令政治の基本法である。
    また、編纂には藤原鎌足の息子、藤原不比等も関わっていた。
  6. 奈良時代

    西暦:710年~794年
    都:平城京(大和国:奈良県奈良市)
    遷都(744年):難波宮(摂津国:大阪市中央区)
    遷都(745年):紫香楽宮(滋賀県甲賀市)
    遷都(745年):平城京(大和国:奈良県奈良市)
    遷都(784年):長岡京(山城国:京都府長岡京市)
    ・平城遷都(710年)
    710年に元明天皇により平城遷都の詔が出された。
    平城京は唐の長安や北魏洛陽城を模して建造されたとされている。
    ・古事記の成立(712年)
    古事記の最初の編纂は天武天皇の時代に遡ります。
    天武天皇は稗田阿礼ひえだのあれ誦習しょうしゅう(書物などを暗記する)を命じました。
    しかし、天武天皇が亡くなったので、元明天皇が太安万侶おおのやすまろに命じ、稗田阿礼が誦習していた内容をまとめさせました。
    そして、712年に太安万侶から元明天皇に献上されました。
    現存する最古の「歴史書」とされています。
    ・日本書紀の完成(720年)
    日本書紀は天武天皇の命により編纂が始まります。
    681年に川島皇子らに編纂を命じ、720年に天武天皇の子である舎人とねり親王がまとめ、元正天皇に奏上されました。
    現存する最古の「正史」とされています。
    ・長屋王の変(729年)
    724年に藤原不比等の四人の息子(武智麻呂・房前・宇合うまかい・麻呂)は、聖武天皇に嫁いだ妹の光明子を皇妃にしようとします。しかし、長屋王が反対をしました。
    長屋王は、父が天武天皇の皇子である高市皇子で、母は天武天皇の皇女である御名部皇女みなべのひめみこであり、また左大臣という臣下では最高位にありました。
    辛巳事件しんしじけんと呼ばれる藤原四兄弟と長屋王による対立です。
    そして729年に「長屋王は密かに左道(呪い・妖術)を学びて国家を傾けんと欲す」という密告があり、藤原宇合らが率いる六衛府りくえふが長屋王の邸宅を包囲し、長屋王を自害に追い込みました。
  7. 平安時代

    西暦:794年〜1185年
    都:平安京(山城国:京都市)
    遷都(1180年):福原京(摂津国:兵庫県神戸市)
    遷都(1180年):平安京(山城国:京都市)
    ・平安京遷都(794年)
    続日本記しょくにほんぎの完成(797年)
    ・承平天慶の乱(935年〜941年)
    ・前九年の役(1051年〜1062年)
    ・後三年の役(1083年〜1087年)
    ・保元の乱(1156年)
    ・平治の乱(1160年)
    治承・寿永じしょう・じゅえいの乱(1180年)
  8. 鎌倉時代

    西暦:1185年〜1333年
    都:平安京
    ・文永の役(1274年)
    ・弘安の役(1281年)
    ・元弘の変(1331年)
  9. 室町時代

    西暦:1336年~ 1573年
    都:平安京
    ・応仁の乱(1467年)
  10. 安土桃山時代

    西暦:1573年~1603年
    都:平安京
    ・川中島の戦い(1553年〜1564年)
    ・姉川の戦い(1570年)
    ・賤ヶ岳の戦い(1583年)
    ・小牧・長久手の戦い(1584年)
    ・関ヶ原の戦い(1600年)
  11. 江戸時代

    西暦:1603年~1868年
    都:平安京
    ・大坂冬の陣(1614年)
    ・大坂夏の陣(1615年)
    ・大塩平八郎の乱(1837年)
    ・黒船来航(1853年)
    ・桜田門外の変(1860年)
    ・禁門の変(1864年)
  12. 明治時代

    西暦:1868年~1912年
    都:東京府
    ・王政復古の大号令(1868年)
    ・廃藩置県(1871年)